東照宮御祭礼 仙台祭の歩み

東照宮祭礼は東照宮造営の翌年、1655年から始まりました。江戸時代を通じて行われ、仙台祭とも呼ばれました。2代藩主伊達忠宗公以降13代まで全ての歴代仙台藩主が祭礼に合わせて東照宮を参拝されました。お祭りの行列は数千人に及び、遠方からも見物が訪れるなど仙台最大のお祭りでした。

東照宮神輿

江戸時代の神輿渡御の様子

江戸時代の神輿渡御の様子
– 仙台年中行事絵巻 –

祭礼行列の主役は御神霊をお遷しした神輿です。

1654(承応3)3月6日に江戸を出発した神輿・騎馬・僧侶などの行列は、わずか7日後の3月13日に仙台に到着し、藩主始め伊達家一門総出で出迎えました。(「東照宮御遷座之雑記」)

神輿は更に1年後の1655年より始まった東照宮御祭礼において仙台の町民の手で城下町を担がれてきました。多くの人々によって守られた神輿は修復を繰り返して現存しており、現在では宮町を始めとした仙台市民の手によって祭礼時に東照宮御旅所(現仙台市立東六番丁小学校)との間を渡御しています。

東照宮神輿東照宮神輿

東北一の大きさの神輿といわれ、1654年の東照宮造営の際、東照宮の御神体を江戸から仙台まで7日間かけて運んだ。その後東照宮祭礼において江戸時代から現代まで氏子や仙台市民に担がれてきた。江戸時代の優美な姿を現代に伝えている。

神輿渡御宮町を通る大正14年(1925)の神輿渡御

現在よりも道幅が狭く、一層神輿の大きさが際立つ。神輿渡御は明治時代に一旦途切れたが、大正時代に再開した。

仙台藩主のご参拝と祭礼行列

伊達忠宗公

伊達忠宗公(1600-1658)

仙台藩二代藩主。守勢の名君と呼ばれた。東照宮造営の翌年、第一回目の東照宮御祭礼を斎行した。

藩主は東照宮参拝前日より身を清め、祭礼当日の早朝衣冠装束により参拝、そのまま国分町の検断屋敷に入り朝食をとって祭礼の行列を見物され、神輿の経過時に拝礼されました。神輿が還御したのち、再び東照宮に参拝し、帰城されました。
この方式はお祭りが開始した伊達忠宗公から13代の約200年の仙台藩政の間ほぼ変わらず行われました。

江戸時代の東照宮御祭礼における
神輿の渡御路

東照宮を出発した神輿などの祭礼行列は、宮町の通りを進む。途中東照宮御旅所(現東六番丁小学校)に一旦到着。
その後清水小路から田町、通町を経て、御譜代町などの氏子町を通りながら、藩主のいる国分町外人屋の前を通る。
東照宮に戻るまで約10㎞ほどの行程で、所要時間は約7時間ほどであった。

参考
『仙台祭りについての覚え書き』小井川和夫

※宮町の通りは仙台駅完成により分断されるまで仙台城下町最長の南北の道であった。

渡物 〜わたしもの〜 (山鉾・山車)

仙台祭の大きな特徴は祭礼行列の中の渡物です。渡物とは山車や山鉾などの祭り屋台のことで、城下町の商人が作り、仙台藩の村方が引き、担ぎました。年によって増減がございましたが神輿の前を数十台もの渡物が運行したことが伝わっています。それぞれの渡物には数十人の仙台藩政が終わり明治時代になると東照宮御祭礼を続けることができなくなりました。東照宮の祭礼行列からは姿を消してしまいました。

渡物
祭礼行列

御旅所

現在仙台市立東六番丁小学校

御旅所(おたびしょ)とは神輿の巡幸に際して、休憩をする場所のことで、現在の仙台市立東六番丁小学校の場所に作られました。この場所は御神体を江戸から仙台に運び入れた際に最後に休息した場所であり、江戸時代を通じて東照宮の境内地として管理されてきました。

校庭にある桜は、仙台市保存樹木のエドヒガンザクラであり、樹齢から推定して、東照宮創建の頃植えられたものだと考えられます。
御旅所到着後祝詞が奏上されます。

御旅所

エドヒガンザクラ

東六小学校にあるエドヒガンザクラ(仙台市保存樹木)