東照宮について

東照宮は、徳川家康公を御祭神としてお祭りしている神社です。
将軍家によって創建された日光や久能山の東照宮を始め、御三家や各藩主によって全国各地に創建されました。

徳川家康公御祭神 徳川家康公

御神徳:開運厄除・家内安全・学業成就・商売繁盛・必勝祈願など

徳川家康公は、1542年、岡崎城(今の愛知県岡崎市)でお生れになり、様々な苦難を乗り越えながら天下を統一され、その後260年以上続く平和な江戸時代の礎を築かれました。近世日本の文化、経済、教育に繋がる制度を作りその影響は計り知れません。

家康公の残した御遺訓は、時代が変わっても私たちの生活の指針となる素晴らしいものです。

家康公を始め徳川家と伊達家には深い繋がりがあります。

 

仙台東照宮

正式名称は東照宮ですが、他の東照宮と区別するために仙台東照宮と呼ばれております。

伊達忠宗公

伊達忠宗公(1600-1658)

仙台藩二代藩主。守勢の名君と呼ばれた。東照宮造営の翌年、第一回目の東照宮御祭礼を斎行した。

仙台の東照宮は、1654年(承応3)、仙台藩の初代藩主伊達政宗公の世継ぎである2代藩主伊達忠宗公によって創建されました。伊達政宗公の没後、仙台藩の領内では大火、大洪水等の災害が続き、仙台藩の財政は重大な危機に陥りました。しかし幕府の物心両面の援助により危機を脱し、基本的な体制を確立することができました。

このような背景から忠宗公は、徳川家に対する尊崇・感謝の標として、1649年(慶安2)に時の将軍徳川家光公に東照宮創建を願い出て直々に許可を得ると、社殿の造営にとどまらず神社を維持管理するための御宮町の制定、仙台最大のお祭りである東照宮御祭礼の斎行と御譜代町を含む氏子町の指定など東照宮を仙台藩の守護神とするための様々な取り決めを行いました。

社殿の造営

東照宮の社殿は本殿、唐門、随身門、別当寺仙岳院など15棟以上の社殿を80万人の人手と金2万両を費やし、5年の歳月をかけて造営されました。忠宗公晩年最大の事業となりました。

神社の鎮座する場所は伊達政宗公の案内で徳川家康公が休息したといわれるゆかりの地であり、当時は天神社(現在の榴岡天満宮)の境内地でした。この地は仙台城の正確な北東(艮)の位置にあたり、まさに伊達家、仙台城下町の守護神として鎮座しています。

仙台城や、仙台藩の社寺建築は大工棟梁梅村氏が担当しており、大崎八幡宮本殿(国宝)、瑞巌寺本堂(国宝)、仙台東照宮本殿(重要文化財)等その建築は後世高く評価されております。

氏子町と御宮町の制定

仙台東照宮は氏神神社として勧請された、全国でも例のない東照宮です。伊達家とともに米沢から移転してきた家臣の住む御譜代町を中心に大町・肴町・立町・南町・柳町・北目町・染師町・田町の8町を氏子町に指定し、氏子町は東照宮のお祭り、東照宮御祭礼の時に神輿を担ぎ、山車を出すことが決められていました。

東照宮御祭礼(仙台祭)について

東照宮の神輿渡御は仙台祭とよばれる全国有数のお祭りで、江戸時代を通じて行われました。今では5年に一度行われております。360年以上前に御神体をのせて江戸から仙台まで渡御した東北最大とも言われる御神輿が現代に残っています。

宮町(御宮町)

現在、東照宮の正面には南北に2キロほど続く宮町がございます。この宮町の通りは仙台駅の開通前は、さらに遥か広瀬川まで続く、仙台の南北に通る最長の道でした。宮町の名称は、東照宮造営時、門前町として御宮町を制定したことに由来しております。御宮町の町人は、東照宮の境内整備やお供え物の準備などをする代わりに納税の免除など様々な特権を受けました。

東照宮造営以降200年以上仙台藩の保護のもとにあった東照宮は明治時代になり、一時存続の危機を迎えます。しかし宮町を中心とした仙台市民の変わらずの崇敬のもと境内は整備され、現在も宮城県内外から多くの参拝者がいらっしゃいます。